真夏の夜の夢 05




その後、マサと花澤と別れた黒澤は、九里虎の見張りを頼んでいた生徒に連絡をとり、言われた場所に向かった。

太陽は沈み、薄暗くなってきた川沿いの堤防をぶらりぶらりと九里虎は歩いていた。
九里虎が住むマンションとは逆方向。
何故こんな所を歩いているのだろうかと黒澤は不思議に思った。

今日は一日面倒な事に付き合わされた。それなのに結局、九里虎の身に起きている異変についてサッパリ分からなかった。
こうなったら直接聞いてやる。最初からそうすればよかった。


「おい、九里虎!」


九里虎は振り向かない。


「九里虎!!」


歩く速度を速めて、もう一度呼ぶが、まだ振り向かない。


「九里虎!!」


おかしい。聞こえないはずはない。

小走りに近寄って、その肩を掴もうとしたその時、九里虎は突然立ち止まった。
勢いあまって背中にぶつかってしまったが、九里虎は動じなかった。


「まぁた、遅れてしもうたばい」


九里虎の肩ごしに前方を見てみるが、誰もいない。
ただ堤防が続いているだけだ。
独り言か?


「おい、九里」


前に回って彼を正面から見ようとして、黒澤は言葉を失くした。

近くで見て改めて分かる。
目の下に出来た隈。
乾いた唇。
痩けた頬。
何か患っているかのような、酷い顔。
その青ざめた顔は斜め下を見て笑みを浮かべていた。
黒澤の肩の高さくらいだ。


「怒っとぉ?」
「…九里虎?」
「酷かー」
「おい、九里虎」
「わしが約束忘れるわけなかたい」
「九里虎!」


九里虎の視線はその角度から動かない。
独り言にしては違和感がある。
まるで誰かと話しているような…。
そこには黒澤しかいないのに。
しかもその甘ったるい話し方、


『女だな、ありゃぁ…』


女といる時のものだ。

冷たいものが黒澤の背中を走った。
冗談だと思っていた。
幽霊なんて。取り憑かれているだなんて。

それなのに。


「おい、九里虎。聞こえねぇのか、九里虎!」


両肩を掴んで強く揺すって見せても九里虎は黒澤を見ない。黒澤が目の前にいる事なんて気付いていない。
ただ虚空を見つめたままヘラヘラと笑うだけ。


「うん。うん。わかっとうよ。ちゃぁんと覚えとるよ」
「おい! しっかりしろよ、お前!」
「わしも楽しみにしよったんばい」
「誰もいねぇんだよ! 九里虎!!」

「楽しみで楽しみで、寝る時間も飯食う時間も勿体なかよ」

「……っ」


それで?
それでこんなにやつれているのか?


「そんでからなん度もここ通っちるんばい。はよ会いとうて会いとうて。なかいなか健気やろ?」


一日に何度も通るのか?
誰もいないのに?


「明日こそはわしの先に来るけんねー」


ろくに食べず、眠らず…まさか、毎日?


「九里虎!!」


もっと早く気付けばよかった。
もっと早く会いに来ればよかった。

この男は自分よりも強い。誰よりも強い。
誰にも負けず屈せず群れず、悠然と我が道を歩く、そんな男なのに。
どうしてこんな事に?
こんな、見えない聞こえない得体の知れないモノなんかに、どうして。

ゾッとした。寒気もした。
だが、それより、何より、苛立つ。ムカつく。悔しい。


「デヘヘェ。そげなこつ言われると照れるばい」


腸が煮えくり返りそうだった。


「うんうん。知っとうよ」


俺がこんなにテメェ自身に腹を立ててるというのに。


「わしも好いとうよ」


プツンと何かが切れた。





「お前はいつまでヘラヘラしてやがんだーっ!!!!!」





ガッ!





「べふっ!」





直後、黒澤の懇親のストレートが九里虎の頬に食い込み、九里虎の体が後方にふっ飛んだ。

地面の上を転がり、起きあがる前にその胸ぐらを引っ掴む。


「てめぇ、何ふっ飛んでやがる!!」

「……っ?!」


殴って余計に腹が立った。
この男は黒澤が殴った所でふっ飛ぶような、そんな軟な男ではないのに。
九里虎はまだ混乱している様子だった。これでもまだ自分をシカトするつもりだったら、もう一発殴ろうと拳を握りしめたが、


「クロサー……?」


九里虎の瞳は、今度はしっかりと黒澤を視界に捉えていた。


「………っ」


脳味噌が沸騰しそうな勢いだったのに、そのたった一言だけで拳から力が抜けた。
迂闊にも安堵の溜息が漏れる。
バカバカしい。
そう思って立ち上がった時だった。


クロ…?


女の声が聞こえた。

振り向くと、女が立っていた。
艶やかな黒髪を上品に結った、淡い藤色の浴衣を着た美女。
薄暗い夜の中でも女の白い肌は内から輝くように際立っていた。


「さゆりちゃん…」


ポツリと九里虎は呟いた。


だが女は真っ直ぐ黒澤を見ていた。
黒澤を見て、驚いているようだった。


クロ…?


ゆっくりと女は黒澤に近付き、黒澤に手を伸ばした。
黒澤は動けなかった。
動こうとはしなかった。
透き通るような女の白い腕があまりにも美しくて、その腕が頬に触れるのをぼんやりと見ていた。


クロ…


そっと抱き締められた。
ふわりと漂った花の香り。
何の花かは分からなかったが、どことなく安心する懐かしいような、そんな香り。
だが、感触がなかった。
確かに触れているはずなのに人の感触がなかった。
まるで霧の中にいるように、触れ合っている場所がしっとりと濡れて、ひんやりと冷たかった。

それが、何故か悲しかった。


「さゆりちゃん。クロサー、知っとぉ?」


さゆりと言われた女がそっと顔を上げて、黒澤の背後にいる九里虎を見た。


あの人が大事にしていた猫。
綺麗な毛並みの黒猫



女が黒澤からそっと離れた。
その瞳が涙で潤む。


クロ…。
あの人の代わりに来たのね…?



黒澤には『あの人』が誰なのかは分からなかった。
第一、自分は猫じゃない。
だが…そう否定する事は出来なかった。

約束。
一緒に花火を見ようと、交わした約束。
ずっと待っていた。
約束の日に。
約束の時間に。
ずっと待っていた。
でも、あの人はやって来ない。
ずっと待っているのに。
何日も。
何年も。
何十年も。
ずっとずっと、待っているのに。

じんわりと胸に染み込んでいく声。
目の前の女が酷く哀れに思えた。


あの人は、もう来ないのね


とうとうその瞳から滴が落ちた。



「さゆりちゃん…」


するりと黒澤をすり抜けて、女は九里虎の前に立った。


ごめんなさい。


「なし謝っとう?」


手を伸ばして、流れ落ちる涙を拭おうとした。
驚いて、九里虎は自分の指先を見る。
その指は濡れる事もなく、女の頬に触れる事も出来なかった。


「さゆりちゃん?」


女がそこに存在していない事に九里虎は初めて気付いた。


ごめんなさい。

あの人は来ない。

もう…もう……わかったの……



「さゆりちゃん…」


女の輪郭が揺らいだ。


あの人が大好きだった花火、見たかった…


少しずつ少しずつ女の姿が夜の闇に消えていく。


「さゆりちゃん!」


九里虎はとっさに女に手を伸ばした。
触れられないと分かっていたのに。


「そいやぁ、わしと見るばい! 来年も、再来年も、わしはここに来るけん、一緒に花火ば見よーえ!!」


?


「せやから! せやから…」


触れた感覚は無かったが、九里虎は女の頬にそっと触れるようにして笑いかけた。


「泣かんとって…」


………。


女は驚いたように目を見開いて九里虎を見上げていた。

そして。


……ありがとう


消えていく瞬間、女は微笑んだ。
ふわりと花開いたような、美しい笑顔だった。





夢でも見ていたのか?

そう錯覚してしまうように、何も無かったように辺りは普通の夜の姿だった。
すっかり日は暮れ、通りかかる者もいない堤防の上。
暫くぼんやりと虫が鳴く音を聞いていた黒澤に、呟くように九里虎が話し始めた。


「彼氏が来るのば、ずっと待っとるち言うてた」


その瞳は、女が消えた場所をまだ切なげに見つめていた。


「絶対に来るて信じとるち言うてても、目が寂しそうでな…放っておけんかった」


だから毎日会いに行った。
毎日同じ時間に彼女はそこに現れた。
そして朝までずっと話していた。
他愛ない話に彼女は笑ってくれた。
だが、瞳はいつも寂しそうだった。


「クロサーのおかげばい」

「は?」


振り返り、九里虎は黒澤を見た。


「さゆりちゃんのほんなごつ笑うてくれたんは、クロサーのおかげやけん。ありがとな」
「別に、俺は…」


自分は腹を立てていたのだ。
あの女にも九里虎にも。
それなのに、あの女の消える間際の嬉しそうな微笑みを思い出すと、釈然としないがこれで良かったのではないかと思ってしまう。
九里虎もまた満足そうに自分に笑いかけるものだから、余計に複雑な気分だ。


黒澤はポリポリと首の後ろを掻いた。


「……いいのかよ」
「ん?」
「あんな約束してよ」


あぁ。と九里虎は思いだし、頷いた。


「わしぁ、オナゴとの約束は忘れんけん。さゆりちゃん別嬪さんやし、別嬪さんと見る花火な、サイコーやけんね」
「……お前、美人だったら幽霊でもいいのか」
「拗ねんでよか。クロサーも一緒に見ようえ。さゆりちゃんもきっと喜ぶ。なぁ、クロ?」
「誰がクロだ! 誰が!!」
「きっとクロサーによう似た、ツンっちした猫やったんねー」


なんだそりゃ、と小さく黒澤は呟き、九里虎は「猫はそういうもんばい」と笑う。
ハァと溜息つき、黒澤は歩きだした。


「どこ行くと?」


九里虎も付いて来る。


「腹へったんだよ。お前は食欲あんのか?」
「へ?」
「は?」

「……へっとる」
「…そーかよ」

「腹へっとる!」
「おぉ」
「ぺこぺこばい!!」
「わかったって」

「腹へっとーよ!!!!」

「わかったっつってんだろ!!!!」



「あ、俺も腹へった」
「俺もー」



「「は?」」


黒澤と九里虎が振り向けば、何故かそこに花澤とマサが立っていた。


「兄やん、何しとう?」


九里虎が不思議そうに二人を見るが、隣の黒澤はすぐさま悟った。


「まさか、つけてたんスか?!」


ニッコニコと笑顔を浮かべながら花澤とマサは頷く。


「おぉ! 黒澤は九里虎の所に必ず行くと思ったからな」
「いやー。いきなり、九里虎を殴るし、二人でぼーっと突っ立ってるし、わけわかんねーーけど、無事いつもの九里虎みてぇだし?」


やったじゃねーか! +d(>▽<) +d(>▽<)

グッと親指を突き立ててキラリと笑顔を浮かべる二人に、くらりと目眩がした黒澤。
サッパリわかっていない九里虎に、マサがバシバシとその背中を叩いて説明し始めた。


「いやな、九里虎がやつれたって心配した黒澤がな、俺達の所に相談しに来てよ、鳳仙の奴らにも武装の奴らにも話聞きに行ってよ。大変だったんだぜ?」

「ちょ、それ最初っから違うじゃねーっすか! マサさん!」

「いやぁ、これも愛だな! 愛のチカラは偉大だぜ! アモーレ!!」

「気色悪ぃ事言わんでくださいよ、旦那!」


まさか真に受けてないだろうな? と恐る恐る九里虎を振り返り、黒澤は青褪めた。
俯き、ぶるぶると肩を震わせている九里虎。
何かを必死に耐えているように両拳はきつく握り締められている。

嫌な予感がして、一歩後退った…が。


「クロサーのワシん為に…兄やん達に頭ば下げ、鳳仙のハゲに頭ば下げ、武装のサルに頭ば下げ…」


いや、頭を下げたとは言ってない。


「クロサーのワシん体ば気遣い、ワシん事ば心配し、ワシん為ば土下座して回ったと…」


いや待て、土下座なんて言葉出てもいないし。


「それもっ、これもっ、すべてっ、ワシへの愛んため!!」


やはり、そこを強調してきたか!
背を向けて走り出そうとしたが、すでに遅く。


「ク、ロ、サーーーーー!!!」

「ギャアアァァァァァァァッッ!!!!」


顔を真っ赤にして感動の涙をドパーッ!と流す九里虎の逞しい腕は容赦なく黒澤を抱き締め、腕ごと肋骨を締め上げた。


「ほなごつ、嬉しか!! 愛らしかっ!!」
「ぐぇぇぇ…っ!」


ギリ、ギリ、ときつく抱き締め、だんだん青から白くなりつつある黒澤の顔を、この数日で伸びた髭で摩り下ろすようにザリザリザリザリ!!と頬擦りする九里虎。


「クゥゥゥロォォォサアアァァァァァッ!!!」


「ギャアアアアアアァァァァァァッ!!!!」


黒澤の哀れな悲鳴が真夏の夜に響きわたり、満足げに花澤とマサは頷き合った。

「めでたしめでたし」と。





-end-







2010/10/7

目次    BAD END



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