「よく降るなぁ」


さっきまでよく晴れてたのにな。

濡れて落ちてきた前髪を掻き揚げて好誠は笑った。

水分を含んだ黒い髪が艶々としていた。
頬から顎にかけて雫が伝っていく様は、まるで涙を流しているようにも見えて…。
だが、形の良い赤い唇は妖艶とした笑みを浮かべていた。
……ゾッとした。
こんな所に外灯が無ければ見えなかったはずなのに。


「どうした? 柳」


寒気がするほど…美しかった。


「いいから早く入れ。風邪引くぞ」
「おぉ」
「真っ先に風呂だぞ。ちゃんと髪も乾かしてから寝ろ」
「わーかってるって」


じゃぁな、柳。
そう笑って好誠は家の中へと入って行った。
パタンと閉められた玄関のドア。
それを見届けてからバイクのエンジンをかけた。行き先は自分のマンションじゃない。


深夜1時。
今日もココロが、カラダが、悲鳴をあげる。
寒い。
誰か。
誰でもいい。
俺を。
温めて。





Wandering at Midnight 01





土砂降りの雨の中バイクを走らせて行き着いた先は、とあるアパート。
ドアを乱暴に叩けば、その部屋の主は直ぐにドアを開けて、ずぶ濡れの柳を確認すると迷わず部屋の中へと招き入れた。
一月ほど前から付き合い始めた『彼女』。
年上なのは知っているが誕生日までは覚えていなかった。


「シャワー浴びて! 風邪ひいちゃう!」


直ぐに押し込められたのは脱衣所。
バスルームでシャワーの湯加減を調整し始める彼女をぼんやりと眺めた。
ピンクのパジャマ姿。
寝てたのかもしれない……どうでもいい。


「……寒ぃ」
「え?」


濡れた服を着たままバスルームに入って、手首を掴む。
壁に細い身体を押し付けて、首筋に噛み付くように口付けた。


「臣次?!」


ゴトンッと音を立ててシャワーヘッドがタイルの上に落ちた。ごろごろと転がりながら足元を濡らし続ける。
女の躰は温かかった。
バスルームの温度と一緒に自分の体温も上がってくる。


「ねぇ、ちょ…待っ……あ、んっ」


でも頭の中はずっと冷えてる。


「ぁあっ、は、あっ」
「……声」
「ぁ、え?」
「声、出すな…」
「んっ!」


聞きたいのはこんな声じゃない。


「…っ…っ!」


触れたいのはこんな体じゃない。


「―――っ!!」


欲しいのはこんな温もりじゃない…。


温もりを求めて、『彼女』という都合の良い立場にある女をがむしゃらに抱いた真夜中。
でも、何故だろう。
行為中もその後もベッドの中も、ココロが、カラダが、『寒い』と訴える。
本当は知っている。
誰でもよかったわけじゃない。

抱けるのなら


『じゃぁな、柳』


お前を抱きてぇよ

好誠―――。










「ねぇ、凄く良い天気よ。起きて!」


突然開かれたカーテン。瞼の奥が急に明るくなって顔を顰めた。
熟睡していたわけではないが、暗闇に慣れた瞳に日の光はキツ過ぎた。


「朝食出来てるよっ。ねぇ、早く!」


甘ったるいフレグランスが染み付いた部屋に、バターとコーヒーの香りが入り混じって、コンポからは失恋を嘆く流行りのJ-POPが流れている。そこに朝から浮かれたような彼女の声。なんて不協和音。

意識が冴えてきてベッドから出ると「これ着て!」と真新しい服を渡された。
彼女からは度々こうやってアクセや服をプレゼントされる。
そういうのは困ると言って何度も返したが、その度に泣かれて、結局は受け取っていた。おかげで柳の部屋のクローゼットには、ほとんど身に付けていない服やアクセ、靴が箱に入ったまま積んである。

着替えを終えて「早く早く」と急かされ、ハート型のローテーブルの前に腰を下ろす。サラダ、オムレツ、パン、フルーツ。至れり尽くせりだ。
オムレツにはケチャップでハートマークが書かれていた。
川地や室田だったら泣いて喜ぶかもな、と思う自分の思考は大概冷めている。


「今日すごく良い天気なのよ。お洗濯日和」
「あぁ…」


昨夜脱いだ服は、頼んでもいないのにベランダでワンピースと日の光を浴びていた。


「ねぇ、今日バイトは?」
「…休み」
「ホント?! 私、今日講義休んじゃう! だから、何処か連れてって? あ! ねぇ、タンデムシートもう付けたんでしょ? 後ろに乗せて? ね?」


別にお前の為に付けたわけじゃない。

期待に目を輝かせて見上げてくる彼女を直視出来なくて、柳は顔を逸らした。
あまりにも露骨なその態度を見て、彼女は表情を曇らせる。


「……怒ってるの?」


付き合い始めてから何度も聞いた、今にも泣き出しそうな声。
別に怒ってない。そう言い掛けて口を閉ざした。
このまま別れられないか、と妙な期待が過ぎったからだ。

そろそろ限界だと自分でも解っている。
最初から無理があった。
この女とは相性が悪いだろうと予測しながら、それでもいいと付き合い始めたのは自分だけれど。

その時、計ったようなタイミングで柳のケータイが鳴り出した。

助かった。

彼女に断りもせず直ぐに通話ボタンを押した。
当然の事だった。


『よぉ、寝てたか?』


着信の相手が好誠だったから。


「いや。どうした?」
『薬局行きたくてよ。迎えに来てくんねーか?』
「……お前、髪乾かして寝なかったな?」
『おー。風呂から出たら、もう、すげぇ眠くてよ』


そのまま寝ちまった、と笑う好誠の声は少し掠れていた。


「ちゃんと乾かせって言っただろ?」
『わりーわりー。今度から気を付ける』


反省の色はゼロ。
まぁ、いつもの事だ。


「わかった。薬買ってくから大人しく寝てろ」
『いや、そんなに悪くはねーんだよ。ちょっと喉が』
「いいから寝てろっ!」
『ハハッ、怒んなよ。待ってるから早く来いよな』
「あぁ」


ケータイをポケットに入れて、柳は立ち上がった。
どうせ何も食ってねーだろうから、コンビニ寄って何か買ってくか。
ベッドの脇に置いてあった財布とバイクの鍵を掴んで、玄関へ向かおうとしたら「どこ行くの?」と行き先を塞ぐように女が立っていた。


「誰か具合悪いの?」
「関係ねぇだろ」
「あるっ!」


癇癪を起こしたように急に張り上げた声。
いつもはただ、めそめそと泣き出すだけなのに、彼女がこんな態度に出たのは初めての事だった。


「武装の人でしょ?! どうして臣次が行かなきゃいけないの?!」
「…あのな」
「他の人でもいいじゃない! 子供じゃないんだから放っておいても大丈夫よ!」
「いいんだ、別に」
「よくないっ!!」


瞳に涙を浮かべたまま胸にしがみ付き「行かないで」と喚き始める。
自分よりも年上の彼女が、駄々をこねる子供のように見えた。
いや、子供なんて可愛い生き物じゃない。これは女だ。ただの女だ。
ねっとりと白い腕がからみつく。鬱陶しい。


「ねぇ、お昼にデートなんて久しぶりだし、何処かに行こう? そうだ、バイトのお給料入ったの! 欲しい物買ってあげるから」
「………」
「ね、行かないで? ね?!」

目に涙を浮かべて必死に訴えてくる。
女は卑怯だ。
涙を流せば大抵の事は許されてしまう。
その涙が本心だろうが計算だろうが、涙である事に変わらない。女の涙に弱い男は多い。
それは虚しい事に柳も例外ではなかった。
買って欲しい物があるわけじゃないが、仕方ないと溜息付いて「渡すもの渡したら帰って来る」と言おうとした。

だが。


「武装と私、どっちが大事なの?!」





その一言で一気に冷めた。





彼女の腕をゆっくりと外すと、そのまま顔を見ず、横を通り過ぎて玄関へ向かった。


「……ゃ」


仕事と私どっちが大事なの?

何処かで聞いた台詞。それによく似ていた。


「ごめんなさいっ…行かないでっ」


そんな事言われて、冷めない男がいるのだろうか。


「行っちゃイヤぁ!」


俺には無理。


「イヤだってばぁあぁっ!!」


悲鳴にも似た泣き声は、玄関を出てドアを閉めても聞こえてきた。
あんなふうに声をあげて泣けるのが羨ましいと少しだけ思う。

俺も泣きたかった。
泣けるのなら、泣きたかった。
苦しい。辛い。助けて。いつも悲鳴をあげている。
そんな自分を心の奥底に閉じ込めて、今日もアイツの隣に立つ。
『武装戦線5代目副頭・柳臣次』の仮面を被って。
それで良かった。傍にいられるだけでいい。多くは望んでいない。

空を見上げた。
雲ひとつ無い青空。日の光が温かい。昨夜の雨が嘘みたいだ。
それなのに何故だろう。俺の心は晴れない。


『武装と私、どっちが大事なの…?!』


武装より…好誠より大事なものなんて、俺にはない。










薬局とコンビニのビニール袋をハンドルにぶら提げて、好誠の自宅前の道路沿いにバイクを停めていると「早かったな」と声が掛かった。
振り向けば、門に背を預けて好誠が立っている。


「寝てろって言っただろ?」
「外の方が温けーよ」


いい天気だ、と目を細めて空を見上げる好誠。
柔らかい日の光を浴びたその横顔がまたいちだんと綺麗で目を奪われた。

時間が止まればいいのに。

俺は好誠の顔をずっと横から見ていたかった。

好誠がふと此方を見る。
直前に視線を逸らしたから目は合わなかった。
目が合うと気付かれてしまうような気がした。
好誠の真っ直ぐな瞳は、自分の奥深くに仕舞い込んである邪な感情を見抜いてしまいそうで怖かった。
何も気付いていない好誠は、いつものスクラップ置き場へ行きたいと言い出す。


「熱はあるのか?」
「さぁ?」
「…家で大人しくしてろよ。お前、風邪ひいたら大抵こじらすだろうが」
「平気だって。 乗せてってくれねぇなら自分で単車乗って行っていいのか? 俺はいいけどよ」


どうする? と問い掛けられて、息を呑む。
吊り上げられた口端と上目遣い。
蟲惑的なその表情に抗える人間がいたら見てみたい。


「……わかったよ」


その代わり上にもう一枚着て来るように言うと、「心配性だな、お前は」と笑って好誠は家の中に入って行った。

意識はしっかりしている。おそらく熱は無い。
薬を飲ませて無理をさせなければ大丈夫だろう。

バイクに跨りエンジンをかけると、ライダースを羽織って戻って来た好誠が後ろのタンデムシートに跨った。


「悪くねぇな」
「何が?」
「このシート」
「そりゃどーも」


お前の為に付けた、なんて口が裂けても言えなかった。
彼女を乗せる為だろうと好誠を含めて皆そう思っているが実際は違う。
何かあると玄場や源次の後ろに乗っている好誠を見て、くだらない嫉妬をしたのがシートを替えた本当の理由だった。


「しっかりグリップ握ってろよ。間違っても、くしゃみして手ぇ離したりするんじゃねーぞ」
「じゃぁ、こうするか?」
「……っ」


悪戯に腰にしがみ付かれて息が詰まった。
何でも無いその行動が、俺の精神状態をどれほど乱すかも知らずに。


「なんてな」


クスクスと笑いながら好誠の体が離れて行く。


「…バカな事やってんじゃねーよ」


動揺を悟られないうちに走り始めた。

腰に回った、好誠の腕。
背中に感じた体温。

自分の体が一瞬で熱を帯びたのが分かった。
今も血管が破裂しそうな勢いで脈打っている。

腰に回った、あの腕、あの指で、いっそ心臓を握り潰してくれりゃよかったのに。
あの一瞬の温もりを反芻しようとする浅ましい自分を必死に抑えて、必要以上にスピードを出して走った。
後ろに座っている好誠は、ただ楽しそうに笑っていた。







2010/2/15

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