真夏の夜の夢 01




その日は、年に一度の花火大会だというのに、朝から小雨が降り続いていた。
しとしとと静かな音を立てて降り続く雨は、肌寒ささえ感じさせるほどに真夏の夜を冷やしている。前日までの炎天下が嘘のようだった。
例年ならば屋台が並び、花火を見に来た大勢の人々で賑わう堤防を九里虎は一人、ぶらりぶらりと歩いていた。


『ごめんね、ぐりちゃん。今日は花火大会が中止だから、家族と出掛ける事になっちゃったの』


その連絡を受けたのは既に待ち合わせ場所に着いてからだった。
雨が降ったくらいでなんだ、と他の彼女をあたってみたものの、今日に限って誰も捕まらない。
雨さえ降らなければ隣には浴衣姿の可愛い彼女が歩いていた筈なのに。
不貞腐れたような顔で空を見上げる。
雨は止まない。
ふぅと息を吐いて視線を下ろすと…はて、今までいただろうか?
少し離れた先に、浴衣姿の女が傘も差さず、しゃがんで川の向こうを見ていた。

流行りの大きな花飾りをつけているわけではなく、古風な簪で上品に結った黒い髪。菖蒲が描かれた藤色の浴衣から覗く手足は白く、まるで雪のよう。
多少離れていても目を引く、なかなかの美女だ。

どうせ暇やし。

そんな軽い気分でふらりふらりと女に近づいて行くと、気付いた女が立ち上がり、九里虎の方を見た。
二十歳を過ぎたぐらいか。
近付くと女の美しさは更に際立ち、一瞬で魅了されてしまった。


「濡れとうよ」


彼女の頭上に安物のビニール傘を掲げてやる。
ふわりと女は微笑んだ。


「ありがとう」


女の澄んだ声が九里虎の脳に伝わり心地よく浸透する。


「あの人、まだ来ないの…」


九里虎が何か言う前に、女は一人話し始めた。


「約束したのよ…」


女の視線の先は、川を挟んだ向かいの堤防。その向こう側には住宅地が続いている。


「必ず来るって約束したのに…」


悲しげな女の横顔を見て、何故か九里虎の胸がズキンと痛んだ。

女の想い人はやって来ない。

何故か九里虎にはわかっていた。
その理由も…。


「女の人かしら…」


ギクリ、と九里虎の表情が強張った。


「素敵な人なのよ? だから、もしかして…ううん、違う。だって、あの人、言ってたわ。約束したもの。私だけだって…」


約束は果たされなかった。
想い人はやって来ない。


「……寒い」


透き通るような白い手で女は自分の肩を抱いた。
その華奢な体が震えているのを見て、なんとも哀れな気分になり、九里虎は女を抱きしめた。
ビニール傘が足下を転がった。濡れる事など気にも留めなかった。


「泣かんでよか」


女の体は冷たかった。


「わしがおる」


強く強く抱き締める。
腕をすり抜けてそのまま消えてしまわないように。
一人で寂しく涙を零さないように。


「本当?」
「あぁ」
「約束よ?」
「あぁ」
「じゃぁ、指切り」





指切拳万 嘘ついたら 針千本 呑ます

指切った





目が覚めた時、九里虎は河原の橋の下で寝転がっていた。
上半身を起こして、ぼりぼりと頭を掻く。
何故、自分はこんな所で寝ていたのだろうか。
尻ポケットには財布と携帯。
携帯を開いて確認すると時間は午前7時。天気は快晴。蝉の鳴き声が聞こえる。


「………?」


誰かと会ったような気もするが、思い出せない。
気のせいだろうか?
それとも夢?

あぁ、そうだ。きっと夢だ。

とりあえず気温が上がりきる前に、自分のマンションへ戻ろうと、九里虎は立ち上がり、歩き出した。
今日もきっと暑くなる。
川辺の雑草に紛れて、開いたままのビニール傘が一つ転がっているのには気付かなかった―――。







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