仄暗い水底から突然浮上するように目を覚ました。


「――――っ」


カっと目を開けて一気に酸素を取り込もうとする。直後、気管が悲鳴を上げた。
異物てら吐き出そうとするように何度も噎せて上手く息が出来ない。
苦しくて目尻に涙が滲んだ。
溺れた後のように、くらくらする頭で周りを見る。
自分の部屋以上に長く過ごす部屋。
一人ぼっちのベッド。
この部屋の本当の主は、まだバイト先から帰っていないようだ。
ブラインドを下げ忘れたおかげで青白い月がよく見える。

時間を確認しようと、枕の横に置いてある携帯に手を伸ばしたがうまく掴めない。
手が小刻みに震えていた。
体を起こして、ぎゅっと拳を強く握る。開く。そして、また握る。

それを何度か繰り返して深い溜息を吐いた。

強く握った両拳がそれでもまだ震えていたから壁に叩きつけた。
それでもまだ止まらない。
止まれ。止まれって。

顔を洗って落ち着こうと思い、ベッドから下りた。
寝汗も酷い。
いっそシャワーでも浴びようかと思ってパーカーを脱ごうとした時、ふと気付いた。
なんだ、この臭い。
ツンとした…嫌な臭い。

背中を汗が伝う。

消毒の臭いだ。

ぞっとして駆けだした。





タトエバ僕ガ死ンダラ





「……何やってんだ、お前」


背後から声を掛けられて、好誠はゆっくり振り返った。


「……よぉ、おかえり」


振り返ると脱衣所に柳が立っていた。
自分の下りた前髪と流れ落ちる湯水が邪魔でよく見えないが、柳はなんとも複雑そうな表情でこちらを見ている。

それも、そうか。

真夜中に服を着たまま、頭からシャワーを浴びて浴室に座り込んでいれば、流石の柳も驚くだろう。

『何やってんだ?』

その質問にどう返そうか考えていると、「風邪ひくぞ」と、開けっ放しだった戸を閉められた。
シャワーの湯水が飛び散っていたのか、脱衣所の床が濡れていたようで、ガラス越しに柳が床を拭いているのが見える。
戸を閉められたおかげで浴室の室温はすぐに上がった。冷えた体が暖かくなるのにつれて頭の中までぼんやりしてきて気持ち悪い。

今、何時だろう。

いつもより柳の帰りが早い気がする。

いや、遅いのか?

そもそも、いつから自分はこうしている?

…覚えてない。

何故こんな事をしているのだろう。

何やってんだ、俺…。

どこ霞がかった思考のまま排水孔に流れていく湯を眺めていると、背後で戸が開く音がした。
ズンズンと近づいてくる足音。好誠の視界の端に柳の足が映る。
好誠と同じように服を着たまま浴室に入って来た柳は、好誠の真横にある浴槽の縁に腰を下ろした。
柳が気に入っているはずのデニムはすぐにびしょ濡れになったが、そんな事気にした様子もなく柳は好誠に問いかける。


「で?」


キュッとコックを捻る音。
シャワーの勢いを弱めて、柳の手が顔に張り付いていた好誠の前髪をかき上げた。


「どうした?」


その手の動きにつられるように顔を上げて、柳の顔を見た。
さっきの複雑そうな顔は何処へやら。


「………っ」


いつもの穏やかで柔らかな瞳と目が合って、なんだか溜まらなくなった。

卑怯だ。そんな瞳をするなんて。
何を言っても許してくれるような、そんな錯覚を覚えさせる。

でも、言えない。


「…よく、わかんねぇ」


言えば、泣き言になる。

手は相変わらず小さく震えたままだった。





目が覚めた時、真っ先に視界に入ったのは見覚えのある天井だった。
真っ白なベッドに、真っ白なカーテン。消毒臭い見飽きた四角い部屋の中。
うんざりする程眺め続けた、あの病室。

手術は成功して、退院して、あの街に帰って来たはずだったのに。
不気味なほど静かな病室に、自分はただ眠っているだけ。


あれは夢だったのか?

帰りたい。
戻りたい。
あの街に。
風のように走っていた頃の自分に。

そんな想いがただ、ただ、強過ぎて。

全部、夢?

体を起こすと変な違和感。
やけに体が軽い。
振り返って愕然とする。
目を閉ざして横たわる自分の体。
青白い月明かりに照らされた、青白い自分の顔。
そこにあるのは間違いなく自分。
じゃぁ、今の自分は?
今の自分は一体…何?


そして目が覚める。


今度は見慣れた柳の部屋。

夢? 今のは夢?

そうだ。夢だ。
帰って来たんだ。この街に。
安心して目を閉じる。


すると、また目が覚める。


今度は病室。
窓に映らない自分自身。

夢?


また目が覚める。


今度は柳の部屋。
柳はいない。誰もいない。


また目が覚める。

また目が覚める。

目が覚める。

目が覚める。

目が

目が

目が

目が

覚まして

閉ざす


閉ざして覚まして希望と絶望。
恐怖と安堵の繰り返し。


夢?

現実?





頭がおかしくなる。





「…なぁ、柳」
「ん?」


どうにかなりそうだった。
いや、もう、どうにかなっているのだろうか。
今は現実な筈なのに、もしかしたら夢なのかもしれない。
本当の自分は、もう……。
そんな自分が見る、幸せで残酷な夢の世界。


「…俺は、」


柳の目を見続ける事が出来なかった。
怖かった。
この優しい眼差しさえ夢だとしたら…そう考えると居ても立ってもいられない。


「……俺は」





生きてるか?





口から出た声は情けないほど小さかった。





暫く沈黙が続いた。
サー…と好誠の髪を濡らし続けるシャワーの水音だけが響く浴室。何十秒が何分にも感じられた。


「………ハッ」


好誠は嗤った。
らしくない笑い方で。


「…悪ぃな、柳。どうかしてるみたいだ」


馬鹿馬鹿しくなったのだ。

どうかしてる。
何て言って欲しかったんだ。
肯定? 否定?
そんなの意味なんて無いくせに。

すると突然、柳は立ち上がった。


「……?」


驚いた好誠が目を丸くしていると、柳は黙ったまま風呂から出て行ってしまった。
閉められた浴室のドアをぽかんと見つめる。

怒らせたのだろうか?
それとも呆れられた?

そんな事を考えていると、再びドアが開いた。
戻って来た柳は、片手にタオル、もう片方の手にビールの缶を握ってシャカシャカと上下に振っていた。
タオルを掛けてから好誠の横にしゃがんだ柳は、その目の前で缶の蓋を開けた。直後、勢いよくビールが吹き出す。


「ぶっ!!」


とっさに避けようとしたがガッチリと肩に手を回されたせいで、好誠は顔面からビールを浴びてしまった。勢いを失った残りのビールは頭上から最後の一滴までかけられる。
髪をつたって流れ落ちるビールが目に入って、粘膜が焼けつくように痛んだ。


「っ!! てめ…なんだってんだよ!」


肩に回った腕を振り払ってそう叫ぶと。


「酔ってんだよ、お前」


予想外の言葉。

思わず目を開けてしまった。
涙で滲んだ視界の向こう。
柳の手が自分に向かって伸びるのが見えて、一瞬身構えたが、その手は好誠の頭の後ろに回ると、そのまま優しく柳の胸に引き寄せた。


「二十歳まで禁酒するって言ってたのによ。源次達が聞いたら笑うぜ?」


ポンポン、ポンポン、
愚図る幼い子供をあやすように優しく叩く。


「…酔う?」
「あぁ」
「誰が酔ってるって?」
「お前だろ? 好誠」


頭の中で柳の言葉を反芻する。

俺は酔ってる?

どうかしてる。
らしくない言動も、行動も。
それは全て、酔ってるから。

『酔ってる事にしてやるよ』

泣きたくなったのも。
怖くなったのも。
全て酔ったせいにしてしまえば、いつだって―――


「仕方ねぇな。皆には黙っててやるよ」


―――好きなだけ甘えていいんだ。


そう言われているようで。


「……ハハッ」


笑えた。今度はちゃんと笑えた。


「…そっか。俺は酔ってるか」


また、じわりと視界が滲んだ。
一度、目をギュッと閉じると滴が零れ落ちた。そして再び目を開ける。
変わったりなんかしていない。
暖かい柳の腕の中。
これが現実。

帰って来ているんだ。
自分がいるべき場所に。


「…ビールで酔ったのは初めてだな」
「そもそも酔った事なんて無いんだろ?」
「さすがに体温ぐらい上がるさ」
「その程度じゃ酔ったとは言わねぇよ」


呆れたように溜息を吐いた柳は未だ好誠に降り注いでいたシャワーの湯を止めると、再び浴槽の縁に腰かけて、タイルの上に座ったままの好誠の髪を洗い始めた。
ビールとシャンプーの香りが混じって変な匂いがした。


「だいたいな、俺の野望はお前を『100歳になっても単車転がすイカしたジジイ』にする事なんだ。早々に三途の川なんて渉らせねぇぞ」
「そりゃまた」


随分と


「イかした野望だな」
「だろ?」


お前がそう望むなら、いくつになってもハイウェイを駆けてやろうじゃないか。

馬鹿げた話でも、柳との会話でなら不思議と力が沸いてくる。


「ちなみに99歳で俺がくたばっちまったらどうする?」
「いや、そこまで生きたなら、あと一年ぐらい踏ん張れよ」
「で、どうする?」


くたばるつもりは無いけれど。

「そうだな…」と思案にくれている柳の声を聞きながら、タイルの上を転がっていたビールの缶を拾った。
『料理用。飲むな。』
黒のマジックで大きく書かれている。
飲む事と人にかける事以外でビールの使用方法を知らない好誠は、このビールが料理のどの工程に使われる予定だったのかさっぱり分からない。
とりあえず今度一本買って来ようと思って、視線を頭上の柳に戻した。


「思いついたか?」
「あぁ。ドラゴンボールでも探しに行く」
「それ一回しか無理だから」
「何回死ぬ気だ、お前」


世の中何が起きるかわからねぇからな、と好誠は肩を疎める。
そりゃそうだけど、と呟いて好誠の髪を洗い流し終えると、その頭にタオルを被せてポンポンと叩くように髪を拭く。


「お前が何度死のうが関係ねぇ。何度だって連れ戻すさ」
「どうやって?」


タオルの隙間から、試すように目を細めて柳を見上げる好誠。
ふわりと香る色香。どれだけ長く傍にいてもドキリとする表情。
この色男はきっと、あの世の連中をも魅了して虜にするのだろう。
困ったように笑って、ムニ、と好誠の頬を摘まんだ。


「閻魔大王とタイマン、だな」


天国だろうが地獄だろうが、くそくらえだ。
そうなれば天使も悪魔も神も悪鬼悪霊も全て敵。
どうせやるなら真正面から乗り込んで派手にやってやる。

その答えに好誠は目を見開き、ぞくっと体を震わせた。
これはきっと歓喜の身震い。
魂に刻まれた闘争本能が疼きだす。


「それ、サイコー」


いつか必ずやって来る、遠い遠い未来のその先にある最高のショーを想って好誠は笑った。

現実も夢も生も死も。
隣には必ず柳がいる。


恐れる事は何もない―――。





-end-




2011/06/27

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